シュガーロードものがたり

長崎街道シュガーロードとは

北九州市立大学文学部教授 八百 啓介

 

江戸時代に九州の玄関口であった小倉と 幕府の直轄都市であった長崎とを結ぶ街道 である長崎街道はいわゆる「鎖国」政策が とられた江戸時代の五街道・脇街道の中で 唯一海外へとつながる街道でした。そこは 長崎奉行や幕府役人、福岡藩・佐賀藩の長 崎警備や江戸への参勤交代に従事する大 名・武士、江戸参府に赴くオランダ商館長 一行、商用に向かう商人や遍歴する職人な どの様々な人々が往来しました。 江戸時代の海外との窓口は「四つの口」 と呼ばれる松前・対馬・長崎・薩摩(琉球) の4つがありました。長崎街道はこのうち 長崎のみならず、対馬藩の飛び地である田 代を経由して朝鮮へも通じていたのです。 16世紀の日本におけるポルトガル人の来 航はキリスト教をはじめとする南蛮文化を 我が国に伝えましたが、とりわけヨーロッ パで最初にイスラムの砂糖食文化の影響を 受けたポルトガルの食文化は、長崎から九 州のみならずやがて日本全国へと広がって いきました。17世紀の江戸時代になると長 崎には中国船(当時は唐船「とうせん」と 呼ばれていた個人船主の船)・オランダ船 (オランダ東インド会社の船)が中国のみ ならずアジアやヨーロッパの文物を積んで 来航するようになります。その中でやがて 砂糖は重要な商品になっていきます。砂糖 は長崎で輸入品としてのみならず中国人や オランダ人から日本人への贈り物としても 用いられたことから江戸時代の長崎はいわ ば砂糖のあふれる都市となったのです。そ の長崎から砂糖が広がり、さらには砂糖を 使った食文化が発信されたのは当然のこと であったといえます。 長崎街道を指す「シュガーロード」とい う言葉はすでに1980年代からメディアに登 場したようです。しかし平成8年(1996) の『月刊佐賀文化』連載記事「肥前シュガー ロード」や平成16年(2004)1月1日の佐 賀新聞・長崎新聞共同企画「肥前の菓子」 に「シュガーロード」という言葉が用いら れることによって人々の間に広く受け入れ られるようになりました。 しかしながら「シルクロード」にちなん だこの「シュガーロード」という名称は必 ずしも砂糖の交易路であったことを意味す るものではありません。長崎に輸入された 砂糖の大半は実際には船で運ばれました が、砂糖の文化や菓子の技術は長崎街道を 行き来する職人や商人や医者といった人々 によって長崎から周辺地域に浸透するとと もに遠く日本各地に伝えられたのです。 江戸時代の北部九州地域に砂糖食文化が 広がっていたことは、当時の江戸の町人の 虫歯率が11.7%であったのに対して九州 の小倉の町人の虫歯率は26.9%もあった ことからもうかがえます。さらに戦前日本 の4大菓子メーカーのうち個人が創業した 森永製菓(1899年創業)の創業者森永太一 郎(1865 ~ 1937)・江崎グリコ(1921年創業) の創業者江崎利一(1882 ~ 1980)・新高製 菓(1905年創業)の創業者森平太郎(1869 ~ 1946)がすべて佐賀出身者であったこと も「シュガーロード」

 

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